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千駄木三丁目南部町会のあゆみ

町 会 に 関 す る 情 報

町会のあゆみ

  本町会の前身である『駒込坂下町会』が加入世帯数の増加等により2分割されて、本町会は昭和33年(1958年)6月19日の創立総会で『駒込坂下南部町会』と決議され、昭和40年(1965年)4月の住居表示法施行に伴い、『千駄木三丁目南部町会』と改称され現在にいたる。

 町会名改称時に町会のシンボルマークを公募して定めた。 

 不忍通りの東西に位置する本町会は8部48班の地区で構成され、町会組織には総務部、経理部、保健部、防犯部、防火部、福祉部、文化青少年部、交通部、公害部、防災部、婦人部の11部があり、歴代役員の献身的尽力により活発な活動を行っている。文京区内でも町会活動に纏まりのある町会との評を得ている。今後とも隣接他町会と協調しつつ、また行政官庁、その他公的機関との連携を一層強め、互助、隣保の精神を以って運営に当たる。 

 谷根千《ヤネセン》の愛称で呼ばれる谷中、根津、千駄木の街は、下町情緒あふれる地域として知られており、土日に限らず平日も多くの散策客で賑わっている。

 東京大学が近くにあることで、過去に川端康成、北原白秋、高村光太郎、夏目漱石、森鴎外など多くの文人が居を構えた住宅を中心とした街です。
千駄木は古くは『豊島郡下駒込村』の一部地区であり、名前の由来は“雑木林で薪などを伐採、その数が千駄にも及んだから”という説や、“太田道灌が栴檀(せんだん)の木を植えた地であり、この栴檀木が転訛した”との説がある。
 

会の歴史

  昭和33年(1958年)に『駒込坂下町会』が加盟世帯数の増加等により2分割されて、本町会は『駒込坂下南部町会』となり、その後昭和40年(1965年)の住居表示改正に伴い、現在の呼称である『千駄木三丁目南部町会』と改称され現在にいたっております。
 

会の構成

 現在本町会を構成する地区は、不忍通りを真ん中に挟み、西側に位置する「千駄木三丁目29番の一部」から「千駄木3丁目36番のすべて」までと、東側に位置する「千駄木37番のすべて」から「千駄木3丁目42番の一部」まであり、当地区を8部に分割し、更にその8部を49班に分割して運営されており、文京区内でも町会活動に纏まりのある町会との評を得ています。
 

街の特徴

  谷根千《ヤネセン》と一括りに呼ばれる谷中、根津、千駄木の街は、下町情緒あふれる地域として知られており、土日に限らず平日も多くの遠来からの散策客で賑わっております。東京大学が近くにあることで、過去に川端康成、北原白秋、高村光太郎、夏目漱石、森鴎外など多くの文人が居を構えた住宅を中心とした街です。

 千駄木は古くは『豊島郡下駒込村』の一部で、名前の由来は“雑木林で薪などを伐採、その数が千駄にも及んだから”という説や、“太田道灌が栴檀(せんだんの木を植えた地であり、この栴檀木が転訛した”との説があります。

 千駄木は、『北区滝野川』辺りから南の『上野公園』・『不忍の池』に向け上流が谷田川、下流が愛染川(俗称:へび川、現在の『夜店通り』の下を流れている。)という川が、西側の本郷台地と東側の谷中台地の間を流れている一体の地域であります。そのため地域から本郷台地と谷中台地のそれぞれに向かう名の付いた坂および名のつかない坂を多く持つ街であります。

 中でも有名な坂が、千駄木2丁目と3丁目の境を東へ下る『団子坂」であり、下りきった先は谷中へと続いています。明治期の道幅は二間半(5m弱)、現在の道幅は20m近くといいます。団子坂ほど多くの文芸作品に登場する坂はないようです。名前の由来は、“昔は坂の下に団子屋があったから”という説と、“急な坂なので雨降りの日に転ぶと泥まみれの団子のようになるから”という説があります。漱石の小説「猫」の中に団子屋の話が出てきます。

 団子坂を下りきった不忍通りの地下を、地下鉄千代田線が「北綾瀬ー代々木上原」間を運行(昭和44年(1969年)12月20日に北千住ー大手町間が一部開通)しており、千駄木駅があります。その昔は路上を、都電が運行していました。路線は、「江戸川橋ー須田町」間の9.5kmを運行し昭和46年(1971年)3月17日に廃止となった20系統と、「神明町車庫前ー銀座7丁目」間の8.6kmを運行し昭和42年(1967年)12月9日に廃止となった40系統の2ルートでした。他交通機関として、「田原町ー池袋」間と「上野松坂屋ー早稲田」間を都営バスが運行しています。

地下鉄千代田線千駄木駅から西へ入った本町会と西隣の『東林町会』の境に須藤公園があります。加賀前田藩の支藩であった大聖寺藩の屋敷跡が、明治になって政治家品川弥二郎の邸宅となり、その後、実業家の須藤吉佐衛門が買い取り、昭和8年(1933年)に須藤家から東京都に寄付されました。昭和25年(1950年)に東京都から文京区に移管され、公園として開園されました。広い公園ではないが、傾斜地となっている地形を利用した変化に富んだ趣のある回遊式泉水庭園。緑が深く、中央の池をめぐって高低差のある散策路があります。池の中には弁財天が祭られており、池に注ぐ流れの上には「須藤の滝」があるなどバラエティに富んでいます。 滝はもともと自然の湧水によるものであったが、水が涸れたため、現在は循環ポンプで池の水が流されています。かつての大名屋敷の庭園の雰囲気が保たれており、一部に子どものための遊具なども設置されています。当町会の行事の『下町祭』と『わくわく子供ランド』は当公園で行われています。