鬼越町会のあゆみ
鬼越の昔
【江戸時代】
江戸時代、北方、中山地域は江戸に近いため、幕府直轄領(天領)と旗本の朝比奈氏の知行領でその大半を占められ、そしてこの時には鬼越村(直轄領と知行領)※中山村(直轄領と寺領)※若宮村(直轄領)※高石神村(知行領)※北方村(知行領)と言う具合に、明治時代以降の行政単位となる村(集落)が形成されていました。
【明治時代】
明治11年、郡区町村編成法の制定により、千葉県東葛飾郡に属するようになり、鬼越村、高石神村、小栗原村が連合し鬼越村に戸長役場が置かれ、更に明治17年一戸長役場の管轄区域の変更と拡大の為、中山村、鬼越村、高石神村、北方村、若宮村が連合する様になり、明治22年に市制町村制に従い、中山連合村は432戸(2,360人)の中山村が成立しました。
【大正時代】
大正13年、ますますの人口増加に伴い715戸(5,595人)の中山町が出来ました。関東大震災は、市川周辺にはあまり被害を受けなかった為、東京から多くの人々が避難して来て、その後市川に留まる人々も多く、京成電鉄及び総武線中山駅の開業とあいまって、人口が増え、飛躍的発展をいたしました。
【昭和時代】
昭和9年11月に、4ヶ町村が合併し、市川市が誕生し、その後、太平洋戦争が勃発して、終戦前後に、一部、鬼高、北方地区に被害がありましたが、終戦後、戦災の少ない市川市には、東京方面より、多くの被災者が流入し、人口は大幅に増加し、若宮の県営住宅等に多くの被災者が入居しました。
鬼越、鬼高地区は、特に土地区画整理事業が進み、宅地化され、農地面積はゼロになっています。
私達の住む鬼越
(鬼越の語源について)
私達の住む鬼越は、今の千葉街道(14号線)に沿って、西は真間川、東は昔の中山台地、高石神台地から続く市川砂嘴で、一部大きく崩れた崖が有り、高石神の南で台地の先端がなだらかに大きく崩れて連なっていました。
オオクエ(大きく崩れた崖という意味)、オニクエ(鬼の様な大きな者が崩した崖と言う意味)と呼ばれ、後年言葉の変遷に伴い、当て字を鬼越と書き鬼越と呼ばれる様になったとも言われております。
又一説には、昭和9年11月3日に市川市が新発足に当たり発刊された「市川市勢総覧」市川市勢調査会に鬼越の地名と記され、"往昔今の字島野(木下街道の西側神明社の東側)の辺に悪鬼が出たので、鬼子居(オニコイ)と言い、人々が挙ってこれを恐れ敬って、此処に祠を祀ってこれを、世直社(現在の神明社)と号した"と記されております。
更に時代は下って、鎌倉時代にはすでに道路の発達をみた如く、治承5年源頼朝がこの地を通って江戸方面に向かう時、或人が読んだ歌に「小夜深く鬼のしこ草踏み越えて行へ言問う真間の浦人」とあり、真間の浦と共に鬼越の地名が出てきています。
鬼高は、耕地整理の時、鬼越、高石神の入会地に後年つけられた合成地名です。
鬼越の由来
神明社社務所の欄間に、書家であり篤志家の荒川さんと言う方が寄贈された(鬼越の由来)と言う書が掛軸されて居ります。
市町村名で鬼越と書く地名は全國に多く存在しております。特に床地方に多く見受けられていますが、読み方は(オニゴエ)(オニコシ)呼ばれて居りまして、やはり地形上からくる説が有力であります。私達の鬼越も、音読に於いては、鎌倉時代にはすでに由来の通「オニゴエ」と呼ばれる地域が存在していたものと思われますが、推測ではありますが、更に数世紀に逆登るのではないかと思って居ります。
街道(千葉街道)が整備され、旅人や防人等が行き交い、当地を通過するのに当たり、多分異様な景観が目につき、自然発生的な呼名がついたものと思われて居ります。また近在には、平将門の居城等も散在し、その頃には、現在の地名が確立していたかも知れません。以上の事を考えながら、荒川氏の「鬼越の由来」等をお読みください。
鬼越の由来(神明社の掛軸)
伝説によると、昔このあたりに恐ろしい鬼が住んで居た事から「鬼子居」と呼ばれたものが後世になって「鬼越」と呼ばれるようになったものである。
古い書物の吾妻鏡によれば、治承四年(西暦1180年)八月、源頼朝が相模国石橋山の戦に大庭景親に打破られ、主従わずか七騎で伊豆の真鶴崎から船で安房の国をさして逃がれ、竜島(勝山町)に着き、その後、北に向って進み、千葉氏の居城猪の鼻城(千葉市)にはいった。九月十八日には華見川(検見川)、馬加(幕張)、津田沼、中山、鬼越を過ぎて下總の国府(国府台)に到着した。
そして、ここに約一ヶ月程留まって兵力を集め、十月十七日に三万余騎を従えて松戸から武蔵の国石浜(台東区浅草)に軍を進めた。その折鬼越にさしかかった千葉常胤の六男で海上郡東荘を領していた東胤頼が「小夜更けて鬼のしこ草ふみ越えて行方こと言う眞間の浦人」の一首を源頼朝に献上したと記されているが、これによって見れば、頼朝の率いる軍勢は、夜も更けたころ、鬼越を通過し国府台に向い進んだことが知らせる。
鬼越の南に位置する鬼高町も元は、鬼越、高石神の一部で大正二年に、鬼高耕区として分立した地名である。
また眞間の浦と東胤頼の歌にある通り今の市川眞間はその昔海岸で眞間神社の御本尊、手古奈様は海岸に流れ着いた御神体をお祀り申し上げたと故人からの言い伝えである。
昭和四十四年十一月十一日
荒川九喜源謝水之を記す
神明神社に奉納す