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扇一丁目親友町会の沿革

 昔は東京府下南足立郡西新井村大字本木字星谷と称し、其の星谷と云う集落が現在の親友会の前身であり、今を去る大正時代は静かな田園地帯で、産物として家庭製紙業及農業等で、特に水芹栽培については大昔より本木の特産として大きく評価され、東京はもとより北海道、関西方面迄出荷されていました。
  戸数としては約25戸以内でほとんど草葺屋根の家でした。現在は昔の面影の草葺屋根は一軒も無くなりました。そのような状況のため住民同士の親睦が非常に強かったのです。

 名所として有名であった荒川堤の桜で、遠くから花見に来られたものです。花ぐもりの空にひばりがさえずり野鳥の楽園で菜の花、れんげ、たんぽぽが咲きみだれ、蝶が舞い遊ぶようなのどかな田園風景でした。
 もともと当地は水田が六割位あったので、夏の夜は青々とした稲の穂先をなでながら吹いてくる夜風はなんともいえない快さでした。
 螢が数しれず飛び舞う姿も今は見ることが出来ません。秋はよく晴れた夕方は西に富士山がくっきり浮び出て秩父連山が手にとる様に見られたものです。
 秋の取り入れでにぎわったもので木の高い所で、もずがきいきいとさえずっている様子も-日一日と冬を迎える淋しさを感じさせ、冬は今よりも当時の方が雪の量が非常に多かったもので、道行く人の服装は番傘と下駄で車の通行も全然無く西北の方は江北橋方面迄農地つづきであったので、「飛脚小さし暮れの秋」を思い出さずにはおられませんでした。

 大正12年の大震災の後、急に発展し此の地に永住する方々が多くなり、その方々と友交を図るように成りました。
 其の後大正14年頃青年同士が親睦会を作り、名称を親友会として発足し青年の親睦を図っておりました。其の後、町会の名称として使うようになり、親友会と改め初代会長として、石井栄一氏が就任し発展して来たのでしたが大東亜戦争が益々苛烈になり、食料品その他物資は全部配給制度となり親友会は解散して、本木四丁目町会を組織して其の業務を行って参り、町会長の印がなければ-にぎりの塩も手に入れる事が出来なくなったり、其の他、出征軍人の歓送、御遺骨の奉迎、防空演習等、非常に多忙を極めました。

 其の後、終戦となり町会制度の解散を命じられ、昭和21年頃衛生組合の設立を命じられて町会の代行を行ってまいりましたが、其の後、昭和27年頃再度町会を発足し名称も親友町会(二代目会長、小宮金太郎氏)が就任して発展してまいりました。

 昭和39年に三代目会長小宮勝五郎氏が就任、その後、昭和49年11月1日より町名も本木四丁目から扇一丁目に変更改名されました。
 昭和51年より四代目会長、榊千之助氏が就任、昭和63年9月21日に町会会館の建替工事に着手、平成元年3月12日工事完成、平成5年12月7日地方自治法(第260条の2)に基づき地縁団体として認可を受け法人化し、平成17年8月30日赤城敏之氏が会長代行に就任し、平成18年4月29日5代目会長として赤城敏之氏が就任、平成18年5月10日会館下の土地177.48㎡を国より買上げ、現在に至っております。