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木根川町会のあゆみ

平成30年4月時点で葛飾区には23万1093世帯、46万1060人(内、外国人1万3968人)が住み、東四つ木1、2、3丁目で木根川町と言われる地域は同年4月で約2147世帯、4367人(外国人164人)が住んでいます。

この町は大正13年に荒川放水路に全線放水が始まり(完成は昭和5年)、それに伴い京成押上線の路線も四つ木バス通りから現在の位置に変更され、四つ木駅も西光寺辺りから移りました。そのころから宅地化が始まりましたが、昭和初期の頃は水道路から四つ木駅舎が見えたと言われるほど、人家が未だ少ない町で畑や蓮田が点在し、水路が街を網の目の様に流れ、現在の街並みを形成しました。

昭和16年12月、日本が真珠湾攻撃をして太平洋戦争に突入した頃から、戦地へ出征する人も増え、この街にも大日本国防婦人会と愛国婦人会と言う二つの組織が出来、その頃町会が組織されたと言われております。

昭和16年頃、初代会長には関戸司一(せきどもりかず)氏、2代目は浄光寺(薬師さま)住職の伊藤孝延(いとうこうえん)氏、3代目は岩瀬巌男(いわせいわお)氏が長をされ終戦を迎えました。戦後GHQの許可が下りて、町会が再開されたのが昭和22、3年の頃のようですが、戦後、新生木根川町会の会長に浅岡兼吉氏が選ばれてより現在までに次の方々が町会長をされました。

現在の木根川橋(旧本田橋、四つ木橋)命名の許可を取り付けたのは山田悦雄氏が会長をされていた頃のようです。この町も時代の流れと共に、農業から始まり染物/革加工業/セルロイド玩具/ソフトビニール玩具/ブリキ玩具/機械部品工業と変遷をして、現在工場他に第2次住宅地化が進んでおります。

この歴史ある町会が、これからの時代を更に活気ある、楽しい、住みよい町になるように、皆様とともに歩んで行きたいと存じます。