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千駄木二丁目東町会のあゆみ

 江戸時代になり、徳川家康が江戸城を構えるにあたり、鬼門になる上野に
寛永寺をたて、その末寺36坊に薪を千駄ずつ納めたところから、千駄木の名
のもとになったといわれている。
 薮下通りや団子坂、谷中三崎坂附近が踏み分け道のようにあり、現在の東
町会の土地は、そのほとんどが湿地であった。
 
明暦大火(1657年)は、江戸市中を焼失させ、幕府は埋めたて地を広げ、
道路幅を広げ、防火のため中心部にあった寺院等を江戸の外に移させた。そ
れが北では谷中、本郷であった。

 根津では、それまで団子坂上にあった根津神社が宝永3年(1706年)五代
将軍綱吉により新しく社殿が造営され、間もなく門前町ができ町家がそろっ
てきた。それにくらべ、千駄木の地は下駒込村に属し、団子板附近や寺の周
囲に町家があったぐらいで、私達の町は小笠原家の抱屋敷の一部でわずかに
たんぼも作られ、谷中との境を駒込の染井から流れだし、不忍池に流れこむ
藍染川が蛇行して流れており、谷中三崎坂下の柳通りのところには枇杷橋が
かかり、根津の入口の境には蛍橋がかかっていて、大雨のたびに氾濫してい
た。
 
団子坂上をゆき、本郷通り(岩槻街道)と交わるところは、江戸前の魚を
扱う肴町があり、その岩槻街道を行くと、高林寺の前には近郊から持ち込ま
れる野菜を取り扱う「やっちゃば」(土物店)があり、農家が大八車などで野
菜を持ち込み、帰りには江戸市民のし尿をのせて帰っていったという。
 
明治10年前田家の跡に帝国大学ができたり、水戸家紡には第一高等学校が
できると、教授や書生の住む家が周囲にできた。それが夏目漱石の猫の家で
あり、森鴎外の観潮楼であった。

 明治22年地区改正により、駒込を頭文字にして、千駄木町、林町、坂下町
が生まれた。駒込の名は馬をかっているところが多いという「駒こみたり」
からその名がついたといい、実際、各所に牧場があったという。
 そのころ、薮下通りを境にして東側を千駄木下と呼んでいて、明治22年9
月の祭礼に、山岡鉄太郎書の掛け軸「根津神社祭神」が薮下通りにあった植
木屋清大園清水利平の寄贈で、高村光雲の作といわれる獅子頭一対の裏書に
は、薮蕎麦三輪侍次郎、大松葉溝辺晴吉とある。薮そばはその後神田にうけ
つがれているが、発生の地が団子坂であった。又、大松葉はその後根津に移
り、有名な妓楼となった。それに西陣織の祭壇用敷き物には、本郷区の第一
人者、秋氏の名がある。町の祭礼にご覧下さい。

 明治32年には田やため池、牧場、鴨池が埋められ、団子坂下まで6間幅(10
m)の新しい道ができた。団子坂附近にあった植木屋種半、植梅、植重、植
惣が地の利が良くなったのを機に、江戸の元文、寛保の頃はやった菊人形を
再びはやらせたが、市内電車を通すために12間幅(21m)に広げられた時に
は、団子板の菊人形はすたれてしまった。

 明治33年、し尿処理を隣近所でしてもらうため、駒込衛生組合ができる。
これが町会の元であるが、私の町には千駄木下衛生組合と団子坂下衛生組合
があった。

 明治38年 芝居小屋「芙蓉館」(千駄木2-11)できる。戦後根津東宝、根津
東映となり、昭和40年閉館になった。

 明治43年 新道(現不忍通り)12間幅(21m)になる。
 大正5年 市内電車、団子板下まで開通、車庫は現NTTハロースポーツ
が車庫だった。道ができてから住民が増えた。市電は大正10年には神明町ま
で延長になり、そして、現みずほ銀行根津支店前から神田松住町方面行37系
統もできた。

 大正9年 大雨のたびに氾濫していた藍染川の暗渠工事が完了。区境に新
しい道ができたが蛇行して流れていたので、今でもヘビ道と呼ばれている。

 大正10年8月 それまで共交会という名で、衛生業務を主とした会を作っ
ていたが、区行政の傘下に入り、千駄木下町会という名称で発足した。大正
12年9月1日関東大震災発生。被害少なく移住してくる人が増えた。

 昭和2年 汐見小学校開放、千駄木下町会事務所が竣工し、漬辺銀行(千
駄木2T33)の取り付け騒ぎがあった。

 昭和18年4月 戦時体制強化の為、町会を500戸単位に編成替えすることに
なり、下町会電車通りを境にして西側1区から5区550戸、東側6区から10区
496戸をそれぞれ西町会、東町会と分割することになった。東町会初代会長に
佐久間桂次氏がなった。

 第二次大戦の末期、爆弾による焼失をさけるため、密集地帯の取り壊しが
行なわれた。(現みずほ銀行根津支店前の通り、サカエ不動産側)
 空襲のため戦後の町会は焼野原で上野方面や開成学園方面も千駄木から見
えたといいます。

 戦後昭和22年5月ポツダム指令により、千駄木東町会は戦争に協力したと
いうことで組織の廃止令を受けました。それでやむなく任意団体の「千駄木
東部協力会」という名で昭和23年4月発足しました。

 昭和27年4月にポツダム指令が解除になり、千駄木東町会として再スター
トしました。
 初代町会長の佐久間桂次氏は在郷軍人会長でもあったため企職追放になり、
2代目に太田兼蔵氏がなりました。3代目に初代佐久間氏が復帰して勤めて
いただきました。

 戦後の10年あまりで復興いちじるしく東町会の家並も揃った昭和33年10月
台風による豪雨で大水害がおき、藍染川を暗きょにして田園や湿地を整地し
て家を建てている当町会では大洪水で床上浸水の家が多数ありました。

 昭和34年8月アカデミー映画館が当町会内に出来て洋画専門として西町会
の角にあった根津東映(旧芙蓉館)の邦画とともに私達に憩いを与えてくれ
たものです。ここアカデミー劇場で東町会の青年部の発足式もおこなわれま
した。青年部は若い者の集りで運動会をしたり、勉強会をしたり、ハイキン
グをしたりとめざましい活動をしていましたが、しばらくして文化部に吸収
されました。そのアカデミ←もその後ガソリンスタンドとなり、また現在は
朝日信用金庫根津支店となっております。

 4代目の会長の佐々木光氏は昭和44年までの10年間、町会長をしていただ
きました。ひときわ背の高い人でした。

 昭和40年に住居表示が改正され千駄木こ丁目東町会となりました。この時、
大正時代に団子坂部会といわれた団子坂下柳通りをはさむ商店が東町会に入
っていただきました。

 昭和44年12月に千代田線が開通しました。最初の案では根津駅が日医大下
不忍通り根津2丁目角のあたりに出来る予定でしたが、商店街と町会が誘致
運動をして千駄木駅があらたに作られました。

 昭和45年春に千駄木こ丁目遊園が開園しています。平成9年度に全面改修
され、名称も千駄木こ丁目児童遊園となり、併せて防災倉庫も設置されまし
た。その後、7代目に溝川順市氏が会長をこ期勤めて頂きました。

 昭和45年に文京つつじ会が組織され、根津神社のつつじ岡にいろいろの種
類のつつじが植えられ整備されました。近年この文京つつじまつりは益々盛
んになってきて期間中70万人位の人出があります。

 昭和46年4月惜しまれて都電20番系統が廃止となりました。大正5年7月か
らですから約55年間走っていたことになります。

 昭和53年12月に町会創立30周年記念式典を汐見会館にて催しました。この
6月より8代大熊武集会長となりましたが、平成8年、9代目現町会長鈴木
富残氏が就任となり、大熊氏の9期18年間を称え町会幹部役員会に於いて名
誉会長に就任致しました。又平成10年に町会創立so周年記念式典も行われま
した。

 昭和55年9月の氏神根津神社大祭に町会員の高橋守様より中若神輿一基の
御寄付をいただきました。昭和60年の祭礼には東西町会共有の大人神輿の修
理が完成し、また町会の皆様の御寄付をいただき神田嚇子「千駄木信和会」
が誕生しました。

 これに遡ること昭和49年の千駄木から根津までの不忍通り道路改修のおり
に段差が生じ歩道が斜めになり負傷者が続出しましたが、その後昭和53年6
月に道路改修工事が完成しました。

 また55年11月に千駄木福祉会館(元下町会事務所)が東西町会に返還され
ました。これが千駄木こ丁目会館です。平成13年3月をもって東町会は使用
をやめました。

 昭和61年より相つぐ水害の対策として不忍池一時貯溜工事完成、その後幹
線工事がおこなわれました。

 平成元年より文京台東下町まつりが催されました。(10回まで続きました。
その後根津千駄木下町まつりに衣がえとなり現在に至る)

 平成2年には溝川英雄氏より町会旗の寄贈をうけました。

 平成7年7月より婦人部から引き継ぎ町会としてビン缶のリサイクルを実
施、この年9月より獅子頭一対を108年ぶりに大改修、町会員の協賛をいただ
き平成8年に完成しました。

 戦後50年をすぎ町会の不忍通り沿いは高いビルが建ち並び、家並みも変わ
りました。生活の中にテレビ、ビデオ、洗濯機など50年前には考えられなか
つた繰入ってきて居り、それもなくてはならぬ物になっています。10年後、
20年後はどのように変わっているでしょうか。

参 考
 文京わがふるさと
 文京のあゆみ
 本郷いまむかし
 ふるさと千駄木
 文京の文化史

栗 原   筏
文京区教育委員会
飯 塚 文治郎
野 口 福 治
文京区教育委員会

副会長 小森谷雅弘 記