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弘道一丁目町会の沿革

 当村の開墾は、文禄・慶長の頃のことにて、次郎左衛門・権右衛門・庄兵衛・茂右衛門等により開けりという。その頃千住4丁目の、各主支配して持添新田となし槐新田と唱うとある。

 この槐新田とかかわりのある、今に残る鶴飼家の古文書に、慶長19年(西暦1614年)11月10日付、伊奈半十郎花押の槐新田4丁目の年貢割付状がある、これが次郎左衛門新田である。また明治9年(西暦1876年)の地誌書上には、文禄年号の頃相州鎌倉の人鶴飼治郎左衛門と云う者、始めて来たり田園開発を遂げ、夫より治郎左衛門新田と称し来ると記されている。

 小名に四ツ星、精出耕地があった。 町張耕地と精出耕地の半分が、明治22年南足立郡綾瀬村大字治郎左衛門新田となり、昭和7年東京市編入により四ツ家町となった。

 四ツ家の町名は、当時の開墾者が4軒(高橋家が二軒、鶴飼家、市川家)であったので、四ツ家町となった。

 90年以上前は、農家が34軒で四ツ家の特産品は蕪、白瓜、山東菜が名産であった。

 昭和20年大東亜戦争終戦後急速に発展した。終戦以前は四ツ家町、ニツ家町、五反野北等にて、二北町会を結成していたが、終戦当時米軍の命令にて、隣組も町会も解散させられた。しかし数年静閑したが、自治会の必要性を痛感致し、昭和34年4月12日に、四ツ家町自治会を結成し町内発展の為につくし、昭和41年に至り1月より新しき住民表示により「弘道」町の名を付けた。

 弘道については、明治11年公立学校が設立され、小学弘道学校と称した。水戸街道に由縁し、水戸学発祥の地「弘道館」に由来すると言う。町名改正に当り之を町名と決定された。

 昭和41年10月31日四ツ家自治会解散されたので、11月3日文化の日弘道一丁目町会が結成され平成18年11月町会創立40周年を迎えた次第です。