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町の沿革

鎌倉の地名は昭和7年の新区制の施行まで正式名は鎌倉新田(東京府南葛飾郡奥戸村字鎌倉新田)と栴し、その地名は「正保(1644年)改定国図」に既に記載され江戸時代以前にその名が存在したと思われる。

新編武蔵風土記稿に「鎌倉新田は、昔相州鎌倉郡より、滞右衛門といへるもの来りて開発せしゆへ此名ありと云ふ尤(もっとも)古く開けし新田と見えて、正保改定のものにも鎌倉新田と載たり、又いっの頓にや村内より蔓茶羅を掘得しものありしより、其遽を鼻茶羅(まんだら)と小名せしか、いつしか村名の如くなりて、却(かえっ)て本名を唱ふるものは少く、既に隣村曲金村(高砂)三社明神寛永10年(1633年)の棟札にも、蔓茶羅村と記せり、かの掘得し蔓茶羅は、板蔓茶羅とて、下総国中山法華経寺に成す、民戸61、東は上小岩村、西は曲金村、南は中小岩村、北は柴又村なり、東西五町、南北七町(一町は約109米)こ、も古より御料地にして今も然り、富村にも佐倉往還かゝる、曲金村より入て上小岩村に達せり」(原文のまゝ)。

近隣の町の古老の中には今でも鎌倉を「まんだら」と呼ぶ人がいる。鎌倉新田の小字は九っに分れ、早魅田(ひでりた)、大会(おおえ)の田、小会(しょうえ)の印、亀沼(かめぬま)、東耕地、前西、向西(むかいにし)、西耕地、堤外と云い、それぞれの耕地の特性を現した名稀である。村は便宜的に東(ヒガシ)上(カミ)下(シモ)中通りの四つに区割りされ村の祭事や諸行は毎年、四地区が交代で当番制で行った。これを「年番(ねんばん)」と構した。村の会合、集会の場所は現在鎌倉一丁目にあるお寺「浄光院」であった。古文書によると江戸、明治以降の村の戸数は慶長年間(1595年)7戸、正保3年(1642年)17戸、元禄8年(1687年)29戸、天明5年(1780年)55戸、文政7年(1818年)61戸、明治元年62戸、明治7年70戸、大正9年(1920年)64戸、昭和38年2650世帯、平成18年度5813世帯、人口12535名である。
 
鎌倉の南端を東西に走る道は下道(シタミチ)と云い往時の小岩一里塚
       *曲金村→現在の高砂、まがりかねむらと読む。
       *御料地→御厨(みくりや)とも云う、伊勢神宮の領地

の渡し(江戸川)から中小岩、上小岩を経て区境の西小岩より細印の三和楕下新中川放水路の底に埋まった旧奥戸村の村役場に至り更に中川の渡しをわたり現在の区役所のある本田村へ通じる重要な道であった。又、北端を東西に走る「さくらみち」は新宿(にいじゅく)の宿場から参勤交代の道として陸前浜街道(今の水戸街道)から別れ佐倉往還と成り下総、上総の国々との往来として重要な役割を果していた。水元小合溜に発し葛西に至る農業用水「上下(じょうげ)の割(わり)小岩用水路(現在のかなえ通り)にかかる「かなえ橋」際の安永6年(1777年)建立の庚申供養塔には「右江戸みち奥戸渡し迄半道」「横向左り矢切漬しみち」と刻字され江戸と松戸方面への重要な脇道であったと思われる。
関東大震災後の不況による失業対策事業として現在の小岩駅北口から柴又に至る鎌倉仲通り(旧栴 救済道路)と柴又街道が整備された。又、小岩用水路は埋立てられ水戸街道方面と葛西方面を結ぶ幹線となり、都補助282号(細田巾鎌倉図書賭一明石小一柴又堤)が災害時の避難に供するため建設中であるが両方とも現在は京成本線に遮断されている状況である。
 
江戸末期から明治にかけて鎌倉の子弟の教育は寺子屋(浄光院)で読み書き、算術を教えていたようであるが明治初期の学校制度はたいへんな紆余曲折(うよきょくせつ)があった。学制発布以降は奥戸小学校、高砂、柴又と近隣に小学校が開校される都度鎌倉の児童の通学区域が新設校に変更された。昭和27年、学制発布以来初めて正規の学校施設として鎌倉小学校が町に開校され現在に至るが昭和46年には人口増加に伴い鎌倉2丁目に明石小学校が開校されたが児童の減少により現在は閉校となっている。
 
交通機関としては大正初年に京成本線が開通し町を東西に縦断している戦後は柴又街道に京成のバス路線が金町とJR小岩間の運行を開始し鎌倉にはこつの停留所が設置された。近年には町の北端を都心と千葉の北総地域を結ぶ京成北総線が開通した。
 鎌倉の地域は第二次大戦以前は純粋の稲作畑作の農村地帯であったが戦後、農地は土地改良(区画整理)が行われ上下水道、都市ガス等公益施設も完備され次々と宅地化され完全に住宅地と化した。現在、鎌倉自治会は区内こ位の大きな組織に発展している。