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平井四丁目南町会の歴史を探る

 当地区は昭和7年の市郡併合に至るまでは東京都南葛飾郡小松川町大字下平井と呼ばれ、其の後の平井4丁目(当時は大字中平井)を除いて1.2.3丁目を包含する下平井町会の一部をなしていた。

 下平井町会は其の地域が極めて広大であった為、8部に区分して夫々に部長をおき、運営の円滑を図ったものである。現在までの、平井四丁目南町会は其の第8部に属し、(当時は変電所の通りを境とした西側)、部長佐々木喜見右門氏は長期に豆る部長功労者として金盃を受領されている。この下平井町会(後に平井町会とかわる)の発足は大正14年で、初代会長には、多年地域の為に尽力し 衆望をあつめられた鈴木和吉氏が推され、爾来5期10年の長きに亘り郷土愛の熱誠を以て一貫、其の功績は昭和9年諏訪神社境内に建立された翁の頌徳記念碑に明らかに刻まれている.

 其の後2代会長島村一郎氏(故衆議院議員)を経て3代会長鈴木金吾氏に至り、・地域の発展と人口の増加に伴い、各部毎に独立の要望が高まり、平井町会は発展的解消を遂げ、ここに第1次二丁目南部町会が発足することとなった。時は昭和15年である。

 会長は初代手越十太郎氏、2代西謙一郎氏、3代山本芳郎氏、4代松永弘氏と相継ぎ5代中根菊一会長を以て終戦を迎えることになったのである。

 その間役員諸氏は地域住民の福祉の為に、防火、防犯、保健、衛生等各部門に亘り一方ならぬ努力を重ね、更に大東亜戦争突入後は防空活動、物資の配給等苦難の道を歩まれたわけである。戦争も末期に及び、昭和20年3月9日の大空襲では東京の大部分は廃虚と
化し、平井地区も民家や諸施設の殆どが焼失、住民も四散して町会も自然壊滅の状態となった。

 終戦後は占領軍の命令で消防団を除く其の他の諸組織、即ち警防団や自治会、隣組等すべて解散され、町会も消滅のままで空白の状態が数年続いたわけである。

 その後罹災の会員も追々復帰するに及び、昭和24年のキテイ台風による大水害を契機として自治会再建の機運が熟し、山沢真龍氏を中心に平井中央自治会の発足を見たのが同年11月であった。当地区は其の第4部で部長に石塚源勝氏が就任したが、各部毎に独立
会計で運営されたので、これが実質上当町会の前身である。